放棄される棚田
棚田の耕作放棄は1970年に始まった。この年は、日本の米づくりの歴史のうえでまさにコペルニクス的転回が行われた年として銘記されている。農林省は、この年まで開田を奨励、たとえば新潟県長岡市の越路原のような丘陵台地のボイ山に渋海川から大型ポンプで揚水し水田を作っていた。それが一転してコメ余りにより生産調整を始めたのである。
その結果、棚田は平坦地の水田に比べて労力は2倍、収量は半分といわれるように労働・土地生産性ともに低いことから狙い打ちされるように転作・放棄されるようになった。(棚田博士 中島峰弘氏の見解より引用)
日本の原風景
奈良県高市郡明日香村稲渕は、観光客で賑わう石舞台古墳から県道15号を2キロメートルほど南下したところにあり、集落には大和川水系の「飛鳥川」が流れ、その河岸段丘の斜面に棚田と、これを維持してきた農家、非農家あわせて60戸ほどが暮らしています。
四季の移ろいとともに、独特の美しさを見せる棚田の農村風景は、見る人の郷愁を誘い「日本の原風景」とも呼ばれて来ました。
稲渕棚田の起源は15世紀に遡るとされ、数百年にわたって代々稲作が続けられて来ています。
四季の移ろいとともに独特の美しさを見せる棚田の農村風景は、見る人の郷愁を誘い「日本の原風景」とも呼ばれて来ました。
耕作放棄のはじまり
棚田の耕作放棄は1970年に始まりました。
農林省(現農林水産省)は、この年までは開田を奨励していましたが、コメ余りにより生産調整を始めたのです。その結果、平坦地の水田に比べて労力は2倍、棚田は収量は半分といわれる棚田は転作や耕作放棄されるようになりました。同時に農林省は杉林への転換を奨めました。
しかし、外国からの安価な木材輸入で木材価格の価格は暴落、棚田は荒れるに任される状態になってゆきました。
以来、2017年現在までに、当時のおよそ50%の棚田の耕作が放棄されたと言われています。
棚田を守る意義
棚田は、人や環境にとって有益な「多面的な機能」を持っているといわれます。
例えば「食糧生産」「保水」「洪水調整」「国土保全」「生態系保全」「保険休養」などがそうです。
元々棚田は、地すべり地帯に拓かれることが多く、地すべりや土砂崩れを防ぐ役割を持っているといわれています。それは、田起こしや代かきなどにより「耕盤」と呼ばれる土層を作り、地下への浸透水を減らすからです。そのため、棚田が耕作放棄されると、耕盤が乾燥して亀裂が生じ、雪融けや大雨の時などに大量の水がこの亀裂から地下に浸透して、地すべりを誘発することがあるのです。
棚田を守ることは、大きな災害を防ぐ意義もあるのです。